中世期の日記についてのレポート
日記の史料としての特性をまとめ、古代から中世にわたる日記の変遷の概要についてまとめた。その後、筆者の専門である先史考古学から見た日記史料の特性について述べ、本講義で得た知見を筆者の専門に用い若干の考察を行った。
歴史学は、史料に依拠する学問である。史料は、おおまかに3つに大別でき、①文献史料、②遺物史料、③民俗資料である。さらにこれらを細別し、研究対象とする学問と対応させると以下の通りとなる。
日記史料については、上記の中で文書・記録として位置づけられる。日記は、狭義に毎日の出来事を日を追って書き留めておく日々の日記を指すものである。記録という言葉は、日記と同義語として使われるが、日記の他に、別記や部類記を含む。一般には、自己の経験した事実を備忘のために書き留めておくものを記録といい、これをとくに日を係けて連続的に書き連ねるものを日記という。 別記とは、恒例・臨時の朝議・公事、その他の重要な行事などの際に、当日の日記の他に別に詳細に記録したもののことである。部類記とは、それらの事項を項目ごとに妙出しまとめたもののことである。 日記の特質としては、1つの事件に関しても連続的な推移が分かり、全般的理解が得られやすいという利点がある。また、日記に記録されるのは、日常の生活の記録となるため、家族や身辺、社会のさまざまなことに対して記述されているものが多い。また、特色として日記は他人に見せることを前提として記録していないため、赤裸々で誇張や隠蔽が文書史料に比べて少ないということがあげられる。
公日記とは、宮廷や官衙などにおける公務上に日記である。これには輪番制によるものと特定のものが連続的に記録するものがある。職掌日記とは、中世以降、公家・官人などの職掌が世襲化の傾向にあり、代々家職に関する日記を書き継いだものである。家来日記・側日記とは、主君の動静を記したものである。記主自身の私日記との混同に注意が必要である。家政日記とは、業務上の月並な記録のことである。商家や農家の家業上の日記などがこれに該当する(齋木1992)。
もっとも古い日記として、正倉院文書中に天平18年の具注暦に記入された日記の断簡がある。記主の名前は定かではなく、簡単なものではあるが、日を追って記録された私的な日記でありる。なお、具注暦に日本最古の遺例は、奈良県明日香村の石神遺跡から出土した持統3年の3・4月の暦を記した木簡である。 平安時代に入ると、宮廷や官司と諸家の私日記が残されるようになる。日本で平安時代以来宮廷貴族の公家日記が数多く記録されているのは日本書紀からはじまる正史としての六国史の編纂が延喜元年に選上された日本三代実録で廃絶してしまったことにあげられる。正史が途絶えてしまい、貴族達が公事の式次第を確かめたくても正史を調べることが出来なくなってしまった。それに加えて、内裏式などの儀式書も編纂されなくなった。 正史や儀式書に変わる先例の準拠として日記の蓄積が求められたものである(倉木編2016)。
院政期には中世的な貴族社会の枠組みができあがる。父子間で政治的帝位を継承する家が成立し、摂関家を中心とする身分秩序が形成される。それぞれの家は、家職をもち、それを父から子へ継承する。その職能に関することを子孫に伝えるものが日記となる。 日記には、さまざまな先例や家職についてを伝える記述が増え、家を支える基本的な文献となる。この、家の歴代の日記を家記という。 日記の記述の中心は、当時の最大の政務である儀式であり、先例などを引用しながら、場所の設え、儀式次第、そして細かい所作に至るまで詳細な記述が見られる。
14世紀の初頭に鎌倉幕府の崩壊とそれに続く後醍醐天皇による建武政権の崩壊によって、日本は百年程の動乱の時代に入る。 平安末期から鎌倉期の日記は、天皇や貴族が記主の主体である。しかし、南北朝期の戦乱や経済的な理由で主要な記事である儀式が行われないものが出てきた。そのため、家に伝わる作法も忘れ去られたり、質の低下が生じたと思われる(元木・松薗編2019)。
中世期の日記について概略をまとめると、現在の我々が知る日記とは特性が異なることが分かった。重要となるのは、読者の設定である(西川2009)。日記について、西川(2009)が指摘するまでもなく、書くという行為は読むという行為なしでは考えることは出来ない。個人の日記といえども、読者があり、それが筆者自身だけなのかどうかという問題が生じる。日記には、秘匿する日記と公開する日記との2分法的分類が考えられると西川は指摘する。 この西川が指摘する問題は、歴史学的な史料を扱う上で根源的ながら重要な問題だと考えられる。つまり、歴史学的史料のコンテクストが、秘匿なのか公開なのか、換言するなら、公を意識しているのか、していないのかという点である。アンネの日記の場合、隠れ家で聞いていたラジオBBC放送が先生の終わりが近いことを報道し、日記の著者は日記帳を清書することを始めている。このように、公開前提で書かれたか否かの違いは、日記執筆者の意識に影響を与え、エクリチュールの性質を変化させることが考えられる(西川2009)。
院政期の日記は、私日記と言っても保存記録的な側面が強くある程度公開を前提として書かれたという見方も出来よう。日記の売買や貸し借りの存在からもその点が裏付けられる。では、この2分法的分類を先史考古学に当てはめることは可能なのだろうか?
遺跡から出土する石器や土器にも、秘匿や公開というコンテクストがあるのだろうか。歴史考古学の範疇に入る、中世の陶磁器類は広域に流通されていたことが知られている。つまり、中世の陶磁器類は公開を前提とされた作品であり、製作地と消費地が明確に分離している。 一方、先史時代(ここでは縄文時代)では、中世の陶磁器類と違って土器を製作した場所が明らかではない。土器の型式や分布からある一定の範囲内で流通していたことは想定されるものの、それが製作法を知る特定の個人が移動したのか製作したもの自体が移動したのか分離することが難しい。つまり、縄文時代の土器は製作地と消費地が同じ可能性がある。つまり、それは商品ではなく公開を前提にしていない「作品」という考え方もできるだろう。 しかし、周知の通り新潟県を中心とした北陸地方で出土する火焔型土器や御子柴・長者久保遺跡で見られるいわゆる「御子柴文化」など他者を意識したとも思える遺物も存在する。安斎はこうした、機能性や効率性を逸脱した通常のデザインから逸脱した、むしろそうした逸脱行為を必要としたかのようなデザイン(意匠・設計)を過剰デザインと呼んだ(安斎2010)。 安斎は過剰デザインのもっとも重要な原則の1つに「強調された可視性」をあげる。デザイナーの意匠ははっきりと見えなければならず、それは適切なメッセージを伝えなければいけない。逆説的には、そこに読み解くに値する意味があると安斎は解く。
松本武彦は、人工物の進化について「ディヴェロップメント(機能的発達)」と「エラボレーション(認知的誘引性付加)」という2つの概念を紹介する。人工物の進化は、このⅡ要素からなり、それぞれの人工物はこの2つの要素をさまざまな比率で体現していると捉えられるのだ。ディヴェロップメント(機能的発達)は、より使いやすく、より快適にと思考する傾向であり、エラボレーション(認知的誘引性付加)は社会的交換の中で現れる社会性の産物である。先史時代の石器にも前途した2分法的分類でいう「公開」の性質が見て取れるだろう。
講義で扱われた看聞日記が記されたのは1416年から1448年までの33年間である。実に、603年前の史料である。一方過剰デザインとして紹介した、神子柴系石器群の年代は約1万6千年前と言われている。その年代差は、実に約1万5千年もある。講義中、専門外のイメージの湧かない中世の話を聞いてよく分からないことが多々ある。しかし、話の端々でどこか、603年前と1万6千年前を重ね合わせてしまう。縄文時代に文字があったら等と途方もないことを考えてしまう。しかし、眼前にいるのは同じ人間である。
人間というのは、ディヴェロップメント(機能的発達)だけを優先して生きる生き物ではない。使いにくい道具があったとしても、思い出があるからとかそういうことを考えてしまう。合理的な側面ばかりではない。日記史料からは、エラボレーション(認知的誘引性付加)な部分が少しばかり読み取れるような気がする。
歴史上の人物達とかけ離れた生活を送っているように感じるが、コミュニケーションの本質的な、原理的な部分は我々と大差ないのかもしれない。その方法論はもちろん異なるだろうが。世界は一本の太い糸でできているように感じるが、実際の所太い糸が複雑に絡まってできている。絡まった糸の中に本質的な部分がある。異なるのはその紐の絡まり方だろう。糸をほどいてみると核の部分は意外と変わらないのかもしれないし、案外違うのかもしれない。
(3926字)
引用文献:
安斎正人2010『日本人とは何か』柏書房
倉木一宏編2016『日本人にとって日記とは何か』臨川書店
齋木一馬1992『古記録学概論』吉川弘文館
西川祐子2009『日記をつづるということ』吉川弘文館
元木泰雄・松薗 斉編2011『日記で読む日本中世史』ミネルヴァ書房